2014年12月30日
毎年恒例


じゃンぼな杵でつくもち米は、一うす三升。
残り少なくなった平成26年12月30日の天気は、午前中は水分を多量に含んだ雨に近い雪。午後からは雨になったが、雨は時々止み、雪よりはいい天気かな。
そんな30日、あるお宅では毎年この日に、親戚をまじえて昔ながらの餅つきをやる。
お邪魔し、つきたての餅をいただきながらの撮影。餅は杵つきだけあって、すべすべとし、そしてこしがあり、良く伸びる特級品。撮影は餅並みとは行かず2級品だ。

我が家には、これもまた毎年30日に八木神社の神官が、竃殿之御祓に来てくれます。
これから先大雪にならないようと念じて、正月を迎えます。
ギンナン 爺
2014年05月18日
河井継之助敗走ルート
T. Kawai's escape route
5月18日

戊辰戦争における長岡藩家老・河井継之助が八十里越えに逃れる際、栃尾側~しただ側へとどのルートを辿ったかは不明です。
しかし、当時の情勢から推察すると、栃尾の九川からしただの牛野尾へ抜ける道が最も可能性が高いと思われます。牛野尾峠(久牛ヶ峰)を越すこのルートは、今は廃れた道ですが、当時しただと栃尾との行き来も盛んで整備も行き届いていたようです。
九川側から入り実際に牛野尾へと継之助を思いながら辿る歴史ツアーは今年で2回目になります。この度は15名もの熱心な参加者に恵まれ充実したハイキングになりました。企画者であるハルちゃんは吉ヶ平の名語り部です。何時もながらの詳しくも楽しい解説に皆さんにご満足いただけました。
峠を越えてから、牛野尾の常福寺さんにおじゃましてご住職のお話も伺いました。この寺があったことも継之助敗走において重要な役割を果たしたのではないかと想像されます。
その後、「道の駅 漢学の里しただ」へ戻り河井継之助所縁の「さくら飯」付きのランチを食べながら、八十里越えと戊辰戦争に思いを馳せました。
しただ郷は八十里越えとともにあり、河井継之助はその長い歴史の重要なヒーローです。興味の尽きない歴史です。

5月18日

上 栃尾・しただ境にある道祖神 下 歴史ガイドツアー
history tour of Usinoo Pass
history tour of Usinoo Pass
戊辰戦争における長岡藩家老・河井継之助が八十里越えに逃れる際、栃尾側~しただ側へとどのルートを辿ったかは不明です。
しかし、当時の情勢から推察すると、栃尾の九川からしただの牛野尾へ抜ける道が最も可能性が高いと思われます。牛野尾峠(久牛ヶ峰)を越すこのルートは、今は廃れた道ですが、当時しただと栃尾との行き来も盛んで整備も行き届いていたようです。
九川側から入り実際に牛野尾へと継之助を思いながら辿る歴史ツアーは今年で2回目になります。この度は15名もの熱心な参加者に恵まれ充実したハイキングになりました。企画者であるハルちゃんは吉ヶ平の名語り部です。何時もながらの詳しくも楽しい解説に皆さんにご満足いただけました。
峠を越えてから、牛野尾の常福寺さんにおじゃましてご住職のお話も伺いました。この寺があったことも継之助敗走において重要な役割を果たしたのではないかと想像されます。
その後、「道の駅 漢学の里しただ」へ戻り河井継之助所縁の「さくら飯」付きのランチを食べながら、八十里越えと戊辰戦争に思いを馳せました。
しただ郷は八十里越えとともにあり、河井継之助はその長い歴史の重要なヒーローです。興味の尽きない歴史です。

モリガメ
2014年03月21日
消えゆく下田の古民具



昭和30年代半ば頃まではまだまだ使われていたが、最近はとんとお目にかからなくなった。
写真上 こしきは、雪国の下田には欠かせない物でもあった。雪が着かないようにするには、真夏の炎天下に外に出し、こしきを熱くしてから、ローを塗ると均一に塗れ、又、中までよく浸み込だ。真夏に冬の準備とは、先人はよく考えたものだ。
写真中 炭焼き小屋の明かり、行き帰りの暗い道を照らすカンテラは、炭を焼く人達は大事にしていた。
箕を作る人もいなくなり、技の継承も難しい。雪下ろしと、ウサギ巻によく着たが、軽くて暖かかった。
ギンナン 爺
2014年02月17日
今年もだんごいただきました

涅槃会の仏事だんごまきが、北五百川にある真言宗智山派・成就院で、2月16日にあり、そのだんごをいただきました。今年の団子は昨年よりも大きく、布袋入りのだんごもあった。だんごは魔除けになり、子供の頃は特にマムシ除けといわれ、袋に入れただんごをランドセルに、提げたのを想い出す。
子供の頃は3月15日にあり、楽しみにしていた。今は、時代の流れか日曜日に行われるようになった。
来年は撮影に行きたいものだが。
ギンナン 爺
2014年02月04日
竿はかり



子供の頃、何処でも使われていた竿はかり。近年ははかりもデジタル化し、竿はかりは骨董品になりつつにある。
写真上は重量物、中は軽量物に使ったはかり。重量物を量る木のはかリは、竿の長さ1m40太さ4センチもある。残る2本の竿は金属。
写真下分銅は、一番大きいので、秤量百貮拾瓩とある。
家にもあったが、重量物用は仕事に行ったおりに、物置等から見つけ、頂いて来た。
ギンナン 爺
2013年06月13日
しただ鉈Ⅹ
FBでも記事にしておりますが、こちらにも出させていただきました。
趣味が高じて始めた刃物いじり、お金を頂く様になり、もう趣味なんて言えません。仕事として認識しております。
何十年も農舎で真っ赤に錆びた古鉈を再生するのはものすごく楽しい仕事なんですが、時々、若い刃物好きの方のカスタム化にお付き合いするのも嬉しいものです。
今回の雪峰祭での事です。持ち込まれた小型の薪割り用の嘴鉈の柄を、「ナタヅカ」に取り替えて、鞘も木製にして欲しい旨の依頼がありました。
before ーafterです。

「ナタヅカ」の柄は、よほどのリクエストがない限り昔ながらの「げんこつスタイル」です。柄尻が大きく膨らむ曲柄は、長時間使っても疲れない形で、嘴鉈に似合う二重のカツラにしました。木鞘も、手に入りやすい杉ですが軽くて水に強く、いい風合いも出ます。上に飛び出たガイドは目を閉じても鞘に入れられる先人たちの工夫です。気に入っていただけるといいなぁ。

藤兵衛では、なたの修理を受け付けております。
相当ひどい錆ぐらいではあきらめないで下さい。
多少の刃欠けは簡単に直します。
大きな刃欠けも相談に乗ります。
柄はナタヅカか、山椒の2種類。鞘も作ります。
古鉈の買取も受け付けます。
藤兵衛工房
趣味が高じて始めた刃物いじり、お金を頂く様になり、もう趣味なんて言えません。仕事として認識しております。
何十年も農舎で真っ赤に錆びた古鉈を再生するのはものすごく楽しい仕事なんですが、時々、若い刃物好きの方のカスタム化にお付き合いするのも嬉しいものです。
今回の雪峰祭での事です。持ち込まれた小型の薪割り用の嘴鉈の柄を、「ナタヅカ」に取り替えて、鞘も木製にして欲しい旨の依頼がありました。
before ーafterです。

「ナタヅカ」の柄は、よほどのリクエストがない限り昔ながらの「げんこつスタイル」です。柄尻が大きく膨らむ曲柄は、長時間使っても疲れない形で、嘴鉈に似合う二重のカツラにしました。木鞘も、手に入りやすい杉ですが軽くて水に強く、いい風合いも出ます。上に飛び出たガイドは目を閉じても鞘に入れられる先人たちの工夫です。気に入っていただけるといいなぁ。

藤兵衛では、なたの修理を受け付けております。
相当ひどい錆ぐらいではあきらめないで下さい。
多少の刃欠けは簡単に直します。
大きな刃欠けも相談に乗ります。
柄はナタヅカか、山椒の2種類。鞘も作ります。
古鉈の買取も受け付けます。

2013年06月11日
100年を経た建具・和紙
この地域では「砂利ズリ」の建具と呼んでいる。今はなか々お目にかかれない。


仕事で訪れる家々には100年を経た品物が、まだまだ健在た゛。写真上。この建具が使われていた建物の棟札には、安政元年と書かれていた。その建物は昭和30年代後半に建て替えられたが、立派な建具は引き続き平成の世まで使われている。板に詳しくはないがケヤキの一枚板ではないだろうか。表面には、漆か何か塗ってあったのか、素人には判断つかず。肝煎りを務めたS家は、大きなくずやであった。
写真下。江戸時代には代々荷継問屋を務めた家の建具。棟札によれば安政3年建築とあり、年代はS家と同じだ。平成になり、建物は建て替えのために解体、その時頂いた4枚である。この建具も立派な建具だが、未だに使われずそのまま。

大谷地は古来より和紙を産す、之を大谷地紙と言う。江戸時代には村松藩へ和紙を以て年貢米に替えて大谷地紙を納めた。御用和紙は明治3年まで続いたが、それ以降は他の地域で漉いた和紙より上質なり、それらと区別するために「本場大谷地紙」と称した。品物は明治10年前後か。
紙の項 参考文献森町沿革誌
ギンナン 爺


仕事で訪れる家々には100年を経た品物が、まだまだ健在た゛。写真上。この建具が使われていた建物の棟札には、安政元年と書かれていた。その建物は昭和30年代後半に建て替えられたが、立派な建具は引き続き平成の世まで使われている。板に詳しくはないがケヤキの一枚板ではないだろうか。表面には、漆か何か塗ってあったのか、素人には判断つかず。肝煎りを務めたS家は、大きなくずやであった。
写真下。江戸時代には代々荷継問屋を務めた家の建具。棟札によれば安政3年建築とあり、年代はS家と同じだ。平成になり、建物は建て替えのために解体、その時頂いた4枚である。この建具も立派な建具だが、未だに使われずそのまま。

大谷地は古来より和紙を産す、之を大谷地紙と言う。江戸時代には村松藩へ和紙を以て年貢米に替えて大谷地紙を納めた。御用和紙は明治3年まで続いたが、それ以降は他の地域で漉いた和紙より上質なり、それらと区別するために「本場大谷地紙」と称した。品物は明治10年前後か。
紙の項 参考文献森町沿革誌
ギンナン 爺
2013年02月18日
団子まき

釈迦入滅日とされる陰暦2月15日に、以前は各寺院で、涅槃の図の掛け軸をかけ読経が終わると団子をまく行事が行われていた。今は団子をまく寺もすくなくなった。この寺は毎年2月の第三日曜日行っている。爺子供のころは3月15日に行われ、その日を楽しみに待っていた。ひろった団子は、小さな袋を親から縫ってもらいその袋に団子を入れ、体につけておくと魔除けに(特にヘビ・マムシ等)なると聞いており、大切にして体につけてたものだ。
17日に団子まきは行われたが、用があって行けず団子の写真だけになった。
ギンナン 爺
2013年02月14日
歴史部会


しただ郷エコツーリズム推進協議会・歴史部会が、2月14日北五百川集落センターで開催された。13時30分に始まった、「しただ郷資源マップづくり」は、出席者7名・事務局の計8名で17時近くまで、旧森町地域の歴史等色々な話でもりあがった。次の、開催日時を決め散会。ギンナン爺には、知識を得るにまたとない日であった。
ギンナン 爺
2013年01月01日
雪の元日

31日から、ず~~と雪マークです。
雪の中、二年参りをされた方も多かったのではないでしょうか。
ここはしただ郷のランドマーク、八木ケ鼻のふもとにある「八木神社」です。

その由来が案内板に書かれていました。
807年に開基した時は八木ケ鼻の頂上付近にあったという由緒ある神社です。
八木ケ鼻は太古の時代、旧石器時代から人々のランドマークとして街道の道しるべにもなり、またその奇形から信仰の対象にもなっていたといわれています。
現在の本殿は1658年に建立されたといいます。今から370年以上前のことです。

また、八木ケ鼻の周囲を八木前と呼びますが、このあたりは明治ごろまでは森町村の中心地であったともいわれています。
隣の看板には五十嵐川に初めて架けられた橋として、「八木橋」が紹介されています。
旧道八十里越があったころ、このあたりは栄えた場所であったことが想像されます。

身を清めてから

お参りをします。

今日の午前中は元旦祭が行われたとのこと。
残念ながら、家の都合でその場には参加できませんでした。
どなたか写真を撮られた方がいらっしゃいましたら、是非載せていただきたいと思います。
大雪の中、心静かに神聖な気持ちになれる八木神社でした。
ひー
2013年01月01日
新春の縁起物

大きな門松です。
いい湯らていさんの玄関に飾られているものは、地元の北五百川の佐野さんというお父さんが作られたものです。

2つで一組み、山にあるものを用いて作られます。これもMaide in Shitadaです。

今日は元日ということで、特別サービス、甘酒の振る舞いです。
そしてもう一つのサービスは…
獅子舞です。
地元の遅場集落の伝統行事「遅場神楽」です。
残念ながら、この時間には行けなかったので、いい湯らていの渡辺さんから写真を送って頂きました。
遅場集落は現在7世帯、ほとんどが70代以上のみの高齢世帯です。が、この神楽を行うときは移住していった若者たちも戻ってきて、一緒に伝統芸能を維持しています。
大勢のご来場のお客様の前で披露されます。
縁起物の神楽(獅子頭)に体を噛んでもらうと無病息災になれるといいます。

外は真っ白な世界ですが、いい湯らていの中は暖かな、ほっとするひと時でした。
ひー
2012年12月07日
しただの古民家~その3~
雪がしんしんと降る中、笠掘集落のとあるお宅にお邪魔しました。
笠掘姫の家の分家に当たるという、熊倉さんのお宅です。
珍しい、曲り家のつくりは、昔馬を買っていた名残だそうで、向かって右側に馬屋があったそうです。
トラクターも耕運機もなかった時代、馬や牛が農業を支えてくれていました。その名残がいまだに残っています。
85歳になるおばあちゃんが出迎えてくれました。
外に飼っている犬は猟犬「ロッキー」、ポインターです。
ご主人は長年猟友会の会員です。
こちらのお宅は寛永年間に立てられたという木札が屋根裏に貼り付けてあったということで、300年も続いているというお宅です。
その中でも、こちらの仏壇はとても立派です。
笠掘姫のお屋敷から引き継いだという仏壇、漆の上に金泊が貼られていたようです。
かなりの年代物です。
こちらの鐘も漆塗りの、年代物らしい風格。
そして、最奥地の笠掘らしく、熊の毛皮がありました。
ご主人が取られたものをフェルトで裏張りして、大事に扱っていらっしゃいました。
こちらは狸の毛皮で作られた腰巻、あったかそうです。
生きているかのようにも見えるテンの剥製。
山奥ならではのくらし・文化を垣間見させていただきました。
2012年11月27日
炭焼き
堅炭・白炭と言われた下田の木炭は、優良の炭であり声価もたかかった。炭焼は過酷で厳しい仕事であったが、八木奥は田畑少なく炭焼を生業としてきた家が多かった。山が遠いと炭焼き小屋に泊まり込んで焼いたとか。その炭焼は、昭和30年後半か昭和40年初めまで続き、後はほそぼそと昭和という時代が無なるころまで続いた。
家まではあと小一時間、一休みだ。この場所は笠堀集落の奥、山の神の吊り橋今はダムの底。荷の重さは八貫メ以上だろう。ネガに昭和31年とあった。


新潟県教育委員会発行の大江・大谷には、昔は生産された炭は荒沢まで運搬され、「五十嵐船」て゜運びだされたとあった。
炭焼きの技を持った人達は高齢になり、技の継承が急がれる。
ギンナン 爺

家まではあと小一時間、一休みだ。この場所は笠堀集落の奥、山の神の吊り橋今はダムの底。荷の重さは八貫メ以上だろう。ネガに昭和31年とあった。

上 新潟県製炭改良講習会記念。於南蒲原郡森町村開催 大正2年7月7日

上 窯だし。 昭和52年
新潟県教育委員会発行の大江・大谷には、昔は生産された炭は荒沢まで運搬され、「五十嵐船」て゜運びだされたとあった。
炭焼きの技を持った人達は高齢になり、技の継承が急がれる。
ギンナン 爺
2012年11月21日
しただの古民家〜その2〜

今日は名下のとあるお宅へおじゃましました。
明治23年築、約120年の歴史のあるお宅です。
リフォームしてありますが、当時は杉皮の屋根に石を置いたものだったそうです。

お宅の中に入ると、大きな神棚がありました。
職人さんが1年がかりで作られたものとか。
明治時代のチェンソーやカッターがない時代にこれだけの木目込みを作るのは
かなり大変だったんでしょうね。

今にあるストーブの位置は昔の囲炉裏あとでした。
今は天井が貼ってりますが、昔は立派な梁が縦に3本並んでいるのが見えたそうです。
直売に欠かさず野菜を出してくれる80歳のおばあちゃんと
それを影で支える82歳のおじいちゃん、
お二人のコンビでできる野菜はいつも売れ行きが良いのです。
来年の春には布ぞうりを作っていただこうと、
材料になリそうな実家に眠っていた布地を持って行きました。
「最初に野菜を出し始めた頃は当番の前の日とか、夜も眠れないくらい不安だったけど、今は楽しくてねぇ…。」というおばあちゃん。
「この冬はぞうり作りを何人かが教えてくれと言ってきている、仲間が増えて嬉しい」と言っていただきました。

外の庭はもうすっかり冬支度がされています。
これからしただ郷は長い冬に入ります。
ひー
タグ :古民家
2012年11月12日
11月11日・・・1周年祭

7・29水害から復活し、昨年11月11日11時11分11秒にリニューアルオープンした「いい湯らてい」、復興1周年祭が行われました。

外のテントではおなじみの「さかたや」さんが登場、たこ焼きやヤキモチなど、いい匂いを漂わせていました。

いいゆらてい野菜組合さんはいつも以上にたくさんの品物が飛ぶように売れていきます。
サービスに豚汁が振舞われました。

1周年ということで、ゴッツォ・ラーテでは1,111円の特別メニューが提供されました。そして本日からアラカルトメニューも登場!気軽に入れますね。
ご案内してくれたのはスタッフの椿さん、いい湯らてい一番のイケメン(だと勝手にPRしています)
写真撮影が下手でいつもぶれてばかりいる私が、この時ばかりは1発でバッチリ撮れました!!
中を歩いていると小学生から「あっ!ひーちゃんだ!!」と声をかけられます。嬉しいですね。

そして本日のメインイベントはしただの伝統芸能、午後14時からは「遅場神楽」です。
わずか4世帯しかない集落総出で行っていらしゃいます。その団結力に敬服します。

獅子頭にくわえられると長生きができるということで、希望者にはありがたいサービスです。
昔は子供の頭をくわえてもらい、子供が泣き出したことがありました。最近はお年寄りが積極的に自分から頭を差し出します。皆さん長生きが一番ですよね。
この日の朝、いい湯らていを長年守り続けてこられた方が昇天されました。
これからも天国から見守り続けてくれると思います。
ご冥福をお祈りいたします。
ひー
2012年11月02日
しただ鉈Ⅶ
先日のスノーピークの「雪峰祭」に、典型的なしただ鉈を持って来られて、修理の依頼をいただいた鉈が完成しました。
この嘴鉈の作者は「ごんじろう」で、私の家のはす向かいが作業場でした。
30年ほど前に火事になりまして、鍛冶は辞められ、この方も3年前鬼籍に入られました。
相手の性格を見ながら焼きを入れるという、非常に腕の良い鍛冶だったと聞いています。
(私の子供の頃は、よく入り浸って、ヤスとかを作ってもらっていましたが、腕の善し悪しは当然無頓着でした)
私の「鉈」に対しての強いこだわりのルーツとも言うべき「ごんじろう鉈」
修理にも気合が入りました。
当然、柄はナタヅカ、お客様の依頼は「極力太く」との事でしたので、私の手でもかなり大きめな柄尻にしました。

藤兵衛工房
この嘴鉈の作者は「ごんじろう」で、私の家のはす向かいが作業場でした。
30年ほど前に火事になりまして、鍛冶は辞められ、この方も3年前鬼籍に入られました。
相手の性格を見ながら焼きを入れるという、非常に腕の良い鍛冶だったと聞いています。
(私の子供の頃は、よく入り浸って、ヤスとかを作ってもらっていましたが、腕の善し悪しは当然無頓着でした)
私の「鉈」に対しての強いこだわりのルーツとも言うべき「ごんじろう鉈」
修理にも気合が入りました。
当然、柄はナタヅカ、お客様の依頼は「極力太く」との事でしたので、私の手でもかなり大きめな柄尻にしました。


2012年10月02日
悲劇の元殿様 松平容保(かたもり)の書状
元、会津藩藩主松平容保は、幕末(文久2年)京都守護職に就任した。守護職容保は、新撰組を配下として京の治安確保につとめた。が、戊辰戦争では、朝敵(国賊)となり奥羽越列藩同盟を結び官軍と戦ったが敗れた。後に、日光東照宮の宮司となり、その時長谷川半平氏に宛てた書状。何か差し上げた際の(たぶんお金)礼状と思う。
拝啓弥御佳案珍重之御事ニ御座候(拝啓イヨイヨ御ケイアンチンチョウ之御コトニ御座候)で始まり、中略、蕪書候不悉(ブショ候ツツガナク)で終わっている。

笠堀集落は前にブログで書いたが、昔から盛んに熊猟が行われていた。その際飯を入れ持ち歩いた今で言う弁当箱であった。最近まで使われていた。飯が大量に入り、又、日持ちもがひじょうに良い。10年くらい前に猟をやめた人から頂いた。各家々で、道草と言うなる草で編んだと聞いている。今は、作る人はいない。貴重品になった「へんへん」だ。
長谷川半平氏は、肝煎りを勤めし当郷の名家名下の人なり。、明治13年の、大火で三条のほとんどを焼いた。その財力をもってこの復興のために金融機関を設立その頭取となり、馬で通ったと親から聞いている。
ギンナン 爺

拝啓弥御佳案珍重之御事ニ御座候(拝啓イヨイヨ御ケイアンチンチョウ之御コトニ御座候)で始まり、中略、蕪書候不悉(ブショ候ツツガナク)で終わっている。

マタギの里、笠堀集落に伝わる「へんへん」と言われている飯を入れて持ち運ぶ飯入れ。
笠堀集落は前にブログで書いたが、昔から盛んに熊猟が行われていた。その際飯を入れ持ち歩いた今で言う弁当箱であった。最近まで使われていた。飯が大量に入り、又、日持ちもがひじょうに良い。10年くらい前に猟をやめた人から頂いた。各家々で、道草と言うなる草で編んだと聞いている。今は、作る人はいない。貴重品になった「へんへん」だ。
長谷川半平氏は、肝煎りを勤めし当郷の名家名下の人なり。、明治13年の、大火で三条のほとんどを焼いた。その財力をもってこの復興のために金融機関を設立その頭取となり、馬で通ったと親から聞いている。
ギンナン 爺
2012年10月01日
祝・登録 国の重要文化財
しただ郷の奥にある一軒宿の温泉旅館、「嵐渓荘」さんがこの度、国の重要文化財に指定されました。
上の写真はそのお祝いにと社員の皆さんに配られた豆大福「升升半升」(ますますはんじょう)、長岡の江口だんごさんの豆大福、おすそ分けにいただきました。
その記念のプレートはこれです。さすが、国から頂いたものらしく、重厚感があります。
今回登録された文化財はこの本館の建物。大正時代に立てられた、木造3階建ての希少価値の高い物です。
重要文化財とは何か? 調べてみました。
ウィキペディアによると、
「重要文化財(じゅうようぶんかざい)とは日本に所在する建造物、美術工芸品等の有形文化財のうち、文化史的・学術的に特に重要なものとして文化財保護法に基づき日本国政府(文部科学大臣)が指定した文化財を指す。」
とのことです。特に、近世末期・近代以降の物で、貴重なものが失われていくことを防ぐ目的で創設されたものらしいです。新潟県内では330件ほど存在するらしく、貴重な建造物となっています。
嵐渓荘さんは緑豊かなしただの奥地、守門川のほとりにあるこのロケーションが素晴らしく、その中に佇む木造の建物がとてもマッチした、心和む空間です。
都会の人から見れば、自然の中でゆっくりできる、この不便だけど時間の流れがゆったりしている空間が魅力的なのだと思います。
昨年の水害の後、徐々に復旧活動も進んでいます。水車の回りもさらに居心地よさそうな場所となりました。
さらに、ついでのPR、このブログをいつも書いてくださってる「ギンナン爺」さんのギンナンも売店で販売しています。
ひー
2012年09月12日
郷土の偉人

今日の新潟日報、地域面に掲載されていました。
しただ郷の偉人、諸橋轍次博士です。
新潟日報社が建設中の本社ビル、その中に作られる「にいがた文化の記憶館」の開設に向けた
県民募金のお知らせでした。
200人の展示予定の中の代表例として、諸橋博士の写真とともに解説が載っていました。
しただ郷の誇りとも言える方が紹介されることの素晴らしさに感動しながら、この構想のしっかりした内容に賛同し、募金する方が多く名乗りを上げることを祈りつつ…。
参考にさせていただきたい内容でした。
ひー
タグ :諸橋轍次
2012年08月02日
しただの贅沢な古民家

庭月にある、旧早川邸にお邪魔しました。
こちらは庭月集落を取りまとめていた旧家で、別棟で診療所も行っていました。
今は人が住んでいませんが、とても古い、歴史のある建物です。

案内をしてくださった日下部さんです。
この建物の管理をされています。
最近まで、とある団体さんが使用していたのですが、今は使われなくなってしまったようです。

囲炉裏は昔はどこの家庭にもあったのでしょうが、今では珍しいものになりました。

入口近くには蓑(みの)や荷物を背負うための民具が下げられています。
この向かいは馬屋があったそうで、一段低い土間になっていました。
昔はどこの家庭でも、動物を飼っていました。馬、牛、豚など農業を支える、または人や荷物を載せたり、今でいう自動車やトラクターの替わりも果たしていました。
同じ屋根の下にいたということは、家族同様の扱いだったのでしょう。

昭和に入ってからも人が住んでいたということで、かまどは少し新しめでした。まだ使えそうです。
知り合いの、八木前出身の50代の方が息子さんが同級生で、子供のころはよく遊びに行ったといわれていましたので、昭和中期までは使われていたかと思われます。

今から見た土間の風景です。とても広いお宅です。

そして、とても貴重なお宝が仏間の天井にありました。
諸橋轍次先生のお父さんが描かれたという天井画です。
早川家は諸橋轍次先生を東京に出すためのスポンサーであったとのことです。地元の理解ある方の支えがあって、漢学の道を極められたんですね。

二階には書画や古書が並んでいました。
昔は学校の先生が2階に下宿していたそうです。
また、大きな庄屋さんなので、下男・下女もいたとか、
今は建物が仕切られていますが、以前は1.5倍ぐらいの広さがあったようです。
仕切られていても、100坪以上の広さがあります。
まだまだ紹介しきれない部分がたくさんありますが、とても素晴らしい、お宅でした。
ひー