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2015年10月22日

明治新道草刈り

the mowing the newly found path 10月10日




10月14,17,18,24日と吉ヶ平〜八十里越周辺でのトレッキングイベントが目白押しです。吉ヶ平カリスマガイドのOさんとイベントに備えての道の草刈りに行きました。
今日は、新しく見つかった明治新道の一部を重点的に刈りました。ちゃんと刈れば4m幅もある立派な道ですが、(上)刈る前は古道との合流点を見落としそうになるくらい草が茂っています。(左下)今日八十里越を只見へと向かうという若者グループをガイドしながらここまで来ましたが、ここでお別れです。(右下)お気をつけて!吉ヶ平山荘で地図を見ながらお茶を飲んでた3人組で東京から来たんだそうです。気楽な感じで八十里越へ行くなんて言うんで心配しましたが、大学の山岳部、ワンゲル部OBの仲間で昨日今日の山ボーイではなさそうで安心しました。明日は雨の予報ですが、今日はノンビリ殿様清水泊まりということになりそうです。話していてもとても山が大好きという感じの清々しい人たちでした。




吉ヶ平の神社後から上にかけてニホンザルの群れがいました。今年は餌がタップリで栄養状態のよさそうなサルたちでした。群れの若いサルたちは好奇心旺盛でしばらく私たちの行く手に並行してついてきました。向こうも私やOさんはこの辺りでよく見かけるので安心しているのかもしれません。



モリガメ

  


Posted by しただ郷 at 11:55Comments(0);歴史

2015年01月24日

今はダムの底となった大谷集落の大杉

森町沿革誌を紐解けば(昭和5年発行)、大谷集落の鎮守諏訪神社は集落を見渡す裏山にあり、祭神は建御名方命。境内には巨杉あり、嵡欝として社階を擁す。大なる五株は周囲三丈(約9m)、強根龍蛇の蟠るが如く・・・、この杉は当時、五十嵐神社の巨杉、原の諏訪神社の大杉と、併せて下田郷の三巨杉と称す。
この巨杉は、昭和30年頃伐られ、残された伐り株は神社とともに大谷ダムの底に沈んだ。







写真は伐採前の巨杉。巨杉を伐り倒すために、特別注文で作ってもらった中の一つで、長さ1m20の専用のノコギリ。
巨杉(宮木)の一枚板で作られた径三尺(90cm)のちゃぶ台。二つ作られたと聞いておるが。

ノコギリと、60年前のちゃぶ台で汚れているが、自宅で保存してある。

 ギンナン 爺
  

Posted by しただ郷 at 14:54Comments(1);歴史

2015年01月15日

戸数3戸まで減ったある集落

積雪2mに達した雪の中の集落。集落を見守ってきた神社も雪の中。1月14日撮影


この写真に何軒か写ているが、住んでいる家は右端で外壁が茶色の家だけ。



この集落の草創は定かでないが、歴史を紐解けば、この集落の名の由来には二つの伝説がある。
詳細に書くと長くなるので、簡単に。その一つ、義経の臣が建久年間にこの地に来て、開いたと言う説と、今一つは、吉ヶ平伝説にある、高倉以仁王御所平を御下りに関する説だ。どちらの説でも時を経ること八百年と、長い歴史のある集落なのだが。

道路と橋、その他も良くなり、今は不便な地ではない。それでも住んでみなければ分からない何かがあるのか。
一時期(年代不明)30戸ほどあったと言われている。昭和10年代は19戸、40年初め、私が商売を始めた頃は17戸であった。それから約半世紀近くを経た今は、3戸となった。悲しいかな歴史ある集落の灯が消えそうだ。

この集落には、今井様と呼ばれた里庄がいた。故に集落挙げて姓は今井、菩提寺も大谷地に在る時宗連光寺だ。
この今井様は、源義仲(木曾義仲)の重臣今井四朗兼平の末孫なりと伝わる。

 ギンナン 爺

  

Posted by しただ郷 at 14:17Comments(0);歴史

2014年11月12日

ルンルン!古道調査

fun 'old road survey'
11月10日

たぶん今年最後の古道調査です。
田代平~吉ヶ平を調査します。長い八十里越え全行程の約半分です。長い行程なので、魚沼市大白川の大雲沢ヒュッテに泊ります。ここのご主人であるAさんは知る人ぞ知る「魚沼のスーパー・山岳ガイド」です。ここで古道調査の中心人物である只見町のHさんらと落ち合います。只見サイド2名+三条サイド5名の総勢7名の”調査隊”です。
Aさんに五味沢林道を車で送っていただき、田代平近くから出発出来ました。




ブナ林越しに田代平が見えます。(上)総勢7名の”調査隊”です。(下)




小松横手辺りから少しづつ陽が射すようになります。守門岳~烏帽子山方向の方向です。(上)南東方向はまだ雲が濃いです。(下)




鞍掛峠に着きます。(上)峠の上に古い道があり石の社跡を発見しました。AさんやHさんからそこにあることを聞いていたのですが、前回までは見落としていました。(左下)しただ側へ下ると現在の道の下に明治の新道跡があります。黒く見える木立の並ぶ手前の平らな辺りです。その更に下にある天保古道へも調査に入ります。(右下)




殿様清水で朝食をとり、空堀、高清水沢方向へと進みます。
途中に立派なブナの巨木がたくさんあります。(上)ブナ沢の堰止湖は3年前の7・29水害で出来たものです。(下)




ブナ坂を上ります。ここのブナ林の美しさは八十里越え一番です。




発掘調査ではなく、キノコ採りです。古道調査はどうしたの!




関屋横手から、現在の八十里越えとなる289号国道工事現場が見えます。5号橋梁現場やスイッチバック辺りが写っています。「八十里越体感バス」ツアーで何時も向こう側からこちらの関屋ツンネをガイドしているので懐かしいです。(上)
番屋乗越を過ぎ、椿尾根まで来ます。
写真右の椿尾根の左手の急斜面に天保の古道がつづら折りに付いているはずです。(下)ここを調査する一隊と先に進む一隊に分かれます。




先発隊が4時に吉ヶ平に着きました。調査隊と合流できたのは5時になりました。

大雲沢ヒュッテに泊まると余裕の行程で調査ができます。これからの調査でも利用させていただくことになるでしょう。そして、何と言っても大雲沢ヒュッテのAさんの協力が得られることは心強いことです。三条市、魚沼市、只見町と八十里越えが繋ぐ地域のパワーが合わさることになります。
今日のメンバーは何度も一緒に古道調査をしている人たちです。親しい仲間とワイワイ楽しく歩くことができましたし、調査成果もそれなりに得られています。
調査はまだまだつづきますが、Hさんは、ボチボチこれまでの成果をまとめ、出版の予定を進めているそうです。お楽しみに!



モリガメ






  


Posted by しただ郷 at 03:10Comments(0);歴史

2014年08月27日

八十里越街道沿いにあった宿屋兼茶屋・しもの茶や





絵になった明治から昭和まで続いたしもの茶や





八十里越街道の要所であった吉ヶ平には、天保年間から、大正4年までに6軒の旅籠が開業されたと、蝶名林竹男著「秘境吉ヶ平」に書かれている。
また、八十里越街道沿いには、宿屋と茶屋を兼ねたのがあった。そのうちの一軒が今も「しもの茶や」と呼ばれ、屋号だけを引き継いでいる。
木賃宿営業取締鑑札を見せてもらったが、明治時代に開業している。旅人で一時期繁盛したのだろう。
当時の宿には遊びの場として無くてはならないものだったのか、博打打をする部屋があった。解体前に見せてもらったが、外からは分かりにくく、何かの時は逃げやすいつくりになっていた。写真に残しておけばと後悔している。
壁に酒井と書かれている文字は道路改修に伴って家を建て替える事になり、開業時代から続いた建物から切り取り、今の家に移設し、後世に伝えている。

壁に文字を書くのが当時流行りだったのか、他に岩田・今き屋・吉田と3か所にあったような記憶がある。

  ギンナン 爺
  

Posted by しただ郷 at 16:08Comments(0);歴史

2014年07月07日

130年余りの歳月が流て


八木橋を語るのに、忘れてはならない八木橋之記という碑がある。
八木橋之記は、八木橋と、八木ヶ鼻が絶景となって眼に飛び込んでくる地に明治十四年に建てられた。
その後この地は、大正末期江坂医師によって医療施設江坂院医となり、院医は昭和20年代まで続いたが、閉鎖された。今は嵐渓荘別館となっている。

昭和30年代の初め別館に宿泊した新潟大学の生徒が気づき、貴重な記録なので、何枚かの拓本にしたという。だがすでに石の風化が進んでいて、判読できない文字が多数あった。

記には、五十嵐川者発源于矢筈岳貫流下田郷之中間灌・・・激浪尤険往時此地設渡船通北南・・・當田屋村佐藤栄仙等相謀架橋八木山麓弘化四年発竣落八木橋。以下略。
明治十四年辛巳春二月 陽諸橋郁撰並書。と刻まれている。

なお、碑に刻まれた文字は、建てられてから130年余り、ほとんど判読不能となっている。そしてこの碑の存在を知る人は今何人いるだろうか。

御影石に刻んだ八木橋之記


掛け軸となった拓本(嵐渓荘蔵)

下田郷には数えきれないほどの石仏、石碑等が点在しておるが、中には歴史の詰まった物もあり、後世に伝えたいものだ。

 ギンナン 爺
  

Posted by しただ郷 at 16:47Comments(0);歴史

2014年07月03日

八十里越え親子3代

history of Hatijuurigoe
7月2日


北五百川集落
village of Kitaimogawa


有名な棚田のある(日本棚田100選)北五百川集落に親子3代で120年以上を八十里越えを通ったという方がいらっしゃるとのことでインタビューにお邪魔しました。下田郷魅力発信協議会として伺いました。

現在79歳になられるかたでとてもお元気です。東北大震災までは只見町をはじめ南会津郡一帯を行商されていたということです。お爺様、お父様、ご自身も当初は八十里越えの街道を歩いて通われたそうです。ご自身は磐越西線、只見線開通後は鉄道と自転車で回り、お爺様、お父様は歩きで香川県一県もある広大な地域を回っておられたそうです。
草刈ガマ、包丁、ハサミなど金物や農家に必要なものを運び売り歩いたのだそうですが、三条名産の車麩も人気の品で会津の人たちから「麩屋さん」と呼ばれることが多かったそうです。
頼まれれば何でも運び、お父様は種豚にする子豚8頭を唐丸籠にいれて担いでいったこともあったそうです。流石にその時は、木の根峠のお助け小屋に泊まったそうです。荷で揺られぐったりした子豚を峠で下して遊ばせたら元気になって、今度は捕まえるのに苦労したそうです。それに時間をとられ泊まるはめになったとか。
笠堀の五十嵐砥(砥石)も重くて40kgは背負ったそうです。
当時、道が良かったこともありますが、8時間チョットで峠を越した(「登り四里、下り四里」)というので昔の人の体力は恐るべきものがあります。
北五百川を3時出発し、長野、吉ヶ平と経由し入叶津、叶津と辿ったそうです。
1度行商に行けば40日ほどかかり、年に3回ほど通ったそうです。
会津の方が居心地がいいくらいで、「しなた」(貴方)、「にしゃ」(お前)・・・と会津弁にもすっかりなじんでおられたようです。それも親子3代にわたるお客さんへの信用と会津の人たちの人情によることのようです。



モリガメ

  


Posted by しただ郷 at 13:01Comments(0);歴史

2014年06月19日

八十里越・今から31年前の記録より

今から31年前の昭和58年(1983)6月19日に、当時の森町小学校6年生29人が、ふるさとの歴史と、先人の苦労をしのぼうと八十里越踏破に臨んだ。

当時の新潟日報記事。写真は吉田さん宅


吉ヶ平分校をまもなく出発。右下鞍掛峠




上・番屋乗り越えで一休み、皆いたかと、6年生担任吉野先生。。下・鞍掛峠は近い頑張れと、赤い帽子のお父さん。刀掛けの下あたりかな

生徒たちは、八十里越の資料を集めたり、八十里越を馬に荷をつけ往来した経験を持つ当時79歳の吉田進さん宅を訪れ、体験談を聞いたりしてこの日に備えた。
当日の参加者は、6年生29人・教師4人(記憶が薄れたが)と、PTA会長、ほぼ同数の父母が参加した。
下田山岳会の藤井さんが先導、私がしんがりを受け持ち、朝6時に小雨の旧吉ヶ平分校を後にした。幸いに椿尾根あたりまで来たら雨は上がり、楽しい八十里越になったと頭に残っている。
なお、全コースは日帰りが無理とのことで、五味沢林道まで歩きそこから帰りはバスで帰校した。
その後何年かはこの八十里越が、行われた。

 ギンナン 爺




  

Posted by しただ郷 at 05:27Comments(0);歴史

2014年04月16日

歴史を訪ねて・人知れず佇む地蔵様







残雪が所々あり、ブナの新緑が映える道を、約く30分。三条新聞の記者と、下田郷史研究会員の方を案内して、昔からお峰(ね)の地蔵様と呼ばれ、親しまれてきた地蔵様まで山歩き。
昔、橋の無かった時代この道は、大事な道であった。その道の峠に人知れずひっそり佇む地蔵様は、何時の頃から在るのか定かで無い。何十年か前に、知っていそうな何人かの人達に聞き、おおよその事は分かったが、ほとんど故人となり、聞く人もいなくなり、先に進まず。
地蔵様は大きいのと、小さいのと、2つ。それに、6地蔵と思われる石仏が、6つ。どちらも一部損壊して、年月を物語っている。
今は、知る人もごくわずかになり、だんだんと忘れ去られるのか。何とか後世に遺したいものだ。

参考までに
地蔵様建立の時代は、文献から推測すると江戸時代の後期か。何の為にかはお知恵拝借。
大きいのは、台座(蓮華座)まで高さ80cm。地蔵様は高さ75cm、底部は60cmと堂々たるもの。小さいのは、台座の高さ40cm、地蔵様は高さ50cmだった。

写真上は、国道から山道をちょっと入った所の石仏群。ここから20分~30分くらいで、地蔵様に辿り着く。この石仏群、住民が離村して約40年近くになり、傷む一方である。

 ギンナン 爺  

Posted by しただ郷 at 21:32Comments(1);歴史

2014年04月05日

3月25日蕗山から撮影した牛野尾谷

自然豊かな谷間を流れる守門川沿いに点在する、牛野尾・早水・濁沢・葎谷・遅場の5つの集落で構成され、それを牛野尾谷地区と呼んでいる。
牛野尾谷は、昔、歴史の道・八十里越が通り、御番所、荷継問屋が置かれた。また、村松藩政時代の文化年間に発生した百姓一揆も、この谷から起こった。
この谷の歴史は、古いと聞いておる。

牛野尾~早水集落まで


右端に葎谷と遅場集落が映ている。煙ったようでなければ、守門岳までバッチリなんだが。

難視聴の牛野尾谷一帯をカバーする、デジタル放送のアンテナ

今回は、雪上登山となったが、登山道は良く整備されていて登り易い。粟ヶ岳、守門岳と違っていて、標高は低いが360度のパノラマと、楽しめた山だった。

 ギンナン 爺


  

Posted by しただ郷 at 14:36Comments(0);歴史

2013年09月12日

年月





八百数十年の歴史がある吉ヶ平集落。その住民が集団で、離村したのが昭和45年。あれからなん年過ぎたか数えてみると、約半世紀近くになり申した。京塚の石塔群は、荒れ放題だった。 上の写真は、先日大竹さんが草やぶになった中から探し当てて、綺麗にした石塔(Facabook)から。                                                                         写真下は、離村から、数年後に苔むした石塔群を、爺が撮った一枚である。

以仁王伝説が残り、司馬遼太郎著の「峠」にも出てくる八十里越が、近年人気が出てきた。集落跡地には、建物、イベント施設などがあり、一時期、忘却のかなたえと忘れかけられたが、関係者の奮闘努力により、吉ヶ平は復活した。

大竹さんへ、勝手に写真使用して済みません。悪しからず。

 ギンナン 爺  

Posted by しただ郷 at 15:46Comments(1);歴史

2013年07月12日

モリガメの写真 Morigame's Works

7月12日
チョットだけよ





今日から、8月25日まで三条市歴史民俗産業資料館で遺跡発掘調査速報展2013が開催されています。その縄文土器展示にモリガメが協力させていただきました。八十里越えのブナの春秋の写真がパネルで展示されています。モリガメの生写真が見れるチャンスです。(入場無料)

ハハハ・・・!

それは冗談ですが、ブナは豊かな森のシンボルです。
説明によると、土器の出現で木の実のあく抜きが出来るようになったりして縄文人の生活が飛躍的に変わったのだそうです。5000年前、しただ郷の長野遺跡で、信濃川流域を代表する火焔型や王冠型土器と東北・会津系の土器が発掘されているそうです。これは当時から、八十里越えを通じた交流が只見としただ郷にあった証なのだそうです。
土器の行き来があれば、人々も行き交い、そしていろんな物語があったことでしょうね。
今も、昔も歴史とロマンの八十里越えです。



モリガメ

  


Posted by しただ郷 at 21:06Comments(0);歴史

2013年05月13日

歴史ミステリー・河井継之助

research of Tugunosuke Kawai
5月13日



上 カモシカ親子が現れた田んぼ跡 下 牛野尾峠と道祖神 Ushinoo Pass


北越戊辰戦争のおりに、長岡藩家老河井継之助が敗走したルートで、栃尾~吉ヶ平をどう通ったかがわかっていません。何通りかの道が考えられますが、牛野尾峠(九川~牛野尾)を越えたのではないかということで私たちは調査に入りました。
もう山菜採りくらいにしか利用されなくなった道ですが、草刈の跡や田んぼの跡も残っています。昔は重要な道だったようで立派なルートです。地の利や当時の世情からいってこのルートを通った可能性が高まった気がしました。


  


Posted by しただ郷 at 13:22Comments(2);歴史

2012年12月29日

しただの古民家〜その4〜



北五百川にある古民家におじゃましました。
安永元年(1772年)に建てられたという目黒さんのお宅、屋号は北蔵(きたぞう)さんです。
建てられた当時はクズ家(茅葺きの家)だったそうで、かなり年季が入っています。240年前ですものね。



まず、目に入ったのは立派な神棚です。
とても信仰心の厚いお宅で、様々な神様が祀られていました。



その中でもしただらしいと感じたのはこちら、「山の神様」「田の神様」です。神社にお願いするとセットで購入できるそうで、各集落の世話人(多くは自治会長)さんから配られます。
毎年11月23日(勤労感謝の日)には森町の世話役の方たちが八木神社に集まり、新嘗祭が行われます。その時に配られるようです。



この古時計、ゼンマイをかければまだ動くそうです。おそらく明治のものではないかと言われていました。



今回、お邪魔した最大の目的はこの柱を拝見することです。
「手斧がけ」(ちょうながけ)といわれる道具で作られています。

(手斧についてはこちらをご参照ください。
http://www.takumi-homes.com/yomimono/daikudougu/0017-chouna.htm

カンナを使わずに作られた柱、見事です。



隣のお部屋は「庭」と呼ばれる農作業用の板場になっています。
その部屋の天井は見事に茅葺きの家の面影を残していました。

しただ郷の歴史を感じさせる、趣のあるお宅でした。


ひー


  


Posted by しただ郷 at 15:41Comments(0);歴史

2012年12月04日

「八十里越」という本

A book named 'Hatijuurigoe'





何気に立ち寄った地元の図書館で「八十里越」というタイトルの本を見つけました。平成元年6月発行で、社団法人北陸建設弘済会編集・発行となっていました。編集委員会、編集委員は、丸山幹雄、高橋忠夫、武川武彦、尾身榮一、中邨脩、長谷川好となっています。表紙のわけわからないイラストは松ヶ崎あたりの雰囲気です。
面白いかどうかはともかく200ページ超の八十里越えに関した本の資料性はすごいです!



モリガメ

  


Posted by しただ郷 at 23:48Comments(2);歴史

2012年10月29日

赤松岩窟堂

岩窟は、赤松と呼ばれている地名。国道289号線から入った山腹にある。岩がせり出し屋根となり、その広さは8畳余りにして、石仏2体が安置されている。今は知る人もわずかになった。






写真上下とも98年12月19日撮影

伝説によれば秀廓なる人、この天然の岩窟に石仏(黒いほう)1体を安置したと伝わる。他の1体は弘化五年四月一輪上人と云う木食行者来りて岩窟に住居すること四、五年自ら石仏を彫り供養し奉りしもの。霊験著明なりとして道俗袂を連ねて参詣せり。台座には、是 弘化五年成申四月十三日 木食行一輪者 奉眼請 大谷チ村地岩屋と、彫られている。今は道も無く訪れる人はいない。石佛は静に村落を見守っていた。



2011年5月12日撮影。あら不思議何時の間にか、前から安置さられていた黒い石佛が台座を残して無くなり、御影石の石佛に代わっていた。
参考書 森町村沿革誌

 ギンナン 爺

  

Posted by しただ郷 at 21:50Comments(4);歴史

2012年10月25日

こんな時代もあったけ

畑か田んぼか、昔の農作業姿



たぶん、昭和30年半ばくらいの写真だと思います

モッコ(下田郷ではそう呼んでいる)を背に、足は草履履き。笠と手ぬぐいをかぶった若いお二人さんなかなかの美人、今、いくつになりましたか。まだまだこの時代は厳しい生活だったが、高齢になった今、この時代が懐かしく思われる。

 ギンナン 爺、  

Posted by しただ郷 at 21:08Comments(7);歴史

2012年09月24日

大筏に乗って来た地蔵様

三条市田島米泉寺の石の大地蔵様は、長崎村(旧下田)字元村から、大筏に乗せられて来た。



地蔵様の由来は、嘉永4年(1851)長崎村の扇左衛門(嵐渓荘先祖肝煎甚右衛門から数えて何代目かに当たる)という人が、子供の無い事から発願して、長野石を二人の石工に刻ませ、建てた(現在は妙蓮寺脇畑になっている)。総丈一丈六尺余り、重量は定かで無い(数十トンか)。

では、なぜ田島へ。明治17年米泉寺和尚と長野の大竹様に霊夢があって、より多くの信者と結縁したいとの地蔵様の願いによって田島に移ることとなった。

さて、夢のお告げによって田島へと移ることになった地蔵様は、どのようにして移されたか。聞いた話では下を流れる三ヶ江筋(用水)を利用して、筏に乗せる所まで運んだと。爺の考えでは、用水までおろすのも難儀、三段造りで三つに分けられるので、春先雪が固くしまった頃を見計らって木ぞりで筏に乗せる所まで運んだと思う。

筏は、五十嵐川に架かる八木橋から上流約60~70mにある砂の平地(子供の頃は砂わらと呼んでいた)で筏を組み、その筏に地蔵様を乗せて置き、春先の増水(雪しろ)を利用して浮かし田島まで運んだ。田島に着いた地蔵様は、青竹を敷並べ曳いて米泉寺まで運んだ。

地蔵様は八十里街道の道路脇にありお参りをする旅人で賑わったと想像する。戊辰戦争では後ろの山に長岡藩の砲台があり、西軍と長岡藩の戦いを見て何を思ったか。 詳しく書たかったが長くなるのでこの辺で終わりとする。

尚、明治8年に長崎村・中野村両村合併し長野村(長野)となった。
大谷地・金子久俊様 長野・大竹君男様に御協力いただき、ありがとう御座いました。

   ギンナン 爺



  

Posted by しただ郷 at 16:48Comments(7);歴史

2012年05月28日

下田郷の三義民

 江戸時代から平成の世までの長きに亘り、                                                  義民として語り継がれてきた七蔵・徳次朗
                                                忠右衛門の慰霊祭が生地葎谷集落で5月
                                                27日全戸が参列して神式で行われた。

                                                石碑は、発起人吉田虎吉・他有志により下
                                                田郷一円に援助を求め建立し昭和14年8
                                                月18日慰霊塔の除幕式並びに慰霊祭が
                                                行われた。






写真上は昭和14年8月18日慰霊塔の除幕式並びに慰霊祭。贈・吉田進一郎様

七蔵・徳次郎は「守門颪」によると、文化11年4月3日(1811)村松藩領内牛野尾谷から発生した
一揆はやがて領内全域に広がった。4月5日一揆は終結し苛政であったと直ちに御蔵を開き
三千石を領下の窮民に各戸四斗づつ永貸付米として分け与えた。この一揆により打ち壊され
た家も多数あった。一揆の主謀者として七蔵・徳次郎・忠右衛門3名が召捕えられた。七蔵・徳次郎
両人は斬首、忠右衛門は闕所追放の上意が下る。上意が下ってから一年後の5月16日に七蔵
徳次郎両人は刑場の露と消えたのである。西山を越えてきた首は生地葎谷集落入り口に七日七夜
さらされた。藩主堀候の裁断は涙を以て裁かれたもので、法と人情とのしがらみで、元禄忠臣義士
の裁きに比すべきであったと伝えられている。

葎谷集落では、毎年5月16日の命日を「義民の日」と定め全戸が参列して慰霊祭を行っている。
ただし今年は田植え作業やむ得ない事情から、特例として27日に変更した。
参考資料 目黒昌司著・守門颪

新発田藩領中之島組(村)にも「義民・歯を抜かれた與茂七」という人物がいた。本を読むとおもし
ろい。
 ギンナン 爺


                                                                                                                                                                                              
                                                  

Posted by しただ郷 at 20:30Comments(0);歴史

2012年05月13日

しただの城

五十嵐神社は飯田城
5月12日




五十嵐神社裏手の土塁と空堀


五十嵐小文治館跡保存会の主催で、前回高城でお馴染みの鳴海忠夫先生の講演があり、私たち「しただ郷自然くらぶ」も見学に伺いました。
五十嵐神社があるところは戦国時代後半の飯田城の城跡であり、その跡地に明治時代になり神社を移築したのが現在の五十嵐神社になっているのだそうです。飯田城は五十嵐小文治館の五十嵐氏の居城で、館と城は対をなす遺跡なのだそうです。この2つの遺跡を先生に解説いただき見学しました。飯田城の土塁や空堀の屈折具合や、五十嵐小文治館の掘割の凹んだつくりから天正年間(1573~92年)の特徴を見出し、そのことから五十嵐氏は五十嵐氏はそのころまで続いたのではないかと先生は推察されておられます。さらに御舘の乱によって滅亡したのではとも考えておられます。土塁や堀の凹凸からそこまでの推察する「山城研究家」の逞しい想像力に関心させられました。



モリガメ

  


Posted by しただ郷 at 19:29Comments(0);歴史