2012年09月24日

大筏に乗って来た地蔵様

三条市田島米泉寺の石の大地蔵様は、長崎村(旧下田)字元村から、大筏に乗せられて来た。



地蔵様の由来は、嘉永4年(1851)長崎村の扇左衛門(嵐渓荘先祖肝煎甚右衛門から数えて何代目かに当たる)という人が、子供の無い事から発願して、長野石を二人の石工に刻ませ、建てた(現在は妙蓮寺脇畑になっている)。総丈一丈六尺余り、重量は定かで無い(数十トンか)。

では、なぜ田島へ。明治17年米泉寺和尚と長野の大竹様に霊夢があって、より多くの信者と結縁したいとの地蔵様の願いによって田島に移ることとなった。

さて、夢のお告げによって田島へと移ることになった地蔵様は、どのようにして移されたか。聞いた話では下を流れる三ヶ江筋(用水)を利用して、筏に乗せる所まで運んだと。爺の考えでは、用水までおろすのも難儀、三段造りで三つに分けられるので、春先雪が固くしまった頃を見計らって木ぞりで筏に乗せる所まで運んだと思う。

筏は、五十嵐川に架かる八木橋から上流約60~70mにある砂の平地(子供の頃は砂わらと呼んでいた)で筏を組み、その筏に地蔵様を乗せて置き、春先の増水(雪しろ)を利用して浮かし田島まで運んだ。田島に着いた地蔵様は、青竹を敷並べ曳いて米泉寺まで運んだ。

地蔵様は八十里街道の道路脇にありお参りをする旅人で賑わったと想像する。戊辰戦争では後ろの山に長岡藩の砲台があり、西軍と長岡藩の戦いを見て何を思ったか。 詳しく書たかったが長くなるのでこの辺で終わりとする。

尚、明治8年に長崎村・中野村両村合併し長野村(長野)となった。
大谷地・金子久俊様 長野・大竹君男様に御協力いただき、ありがとう御座いました。

   ギンナン 爺





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Posted by しただ郷 at 16:48│Comments(7);歴史
この記事へのコメント
うちの先祖が大きな地蔵様を米泉寺様にお渡しした理由は考えられますが、明治中期の頃という時代からして…。それにしても綺麗なままでいらっしゃいますね。実物にお会いしたことがないので近いうちに。
輸送についての考察はさすがギンナン爺様ですね(^^)/
あと、さんくらびらに砲台があった?とは知りませんでした!
Posted by らんけいごお at 2012年09月24日 17:58
いつもながら、ぎんなん爺様の歴史の分は興味が惹かれます。

26日の夜、空いていらしゃいませんか?

エコツーリズム推進協議会の勉強会があります。

下田公民館で夜7時から、自然の話が30分、文化財係の田村さんから古代の歴史の話30分です。
Posted by ひー at 2012年09月24日 20:00
これからも宜しく、頑張ります。
Posted by ギンナン爺 at 2012年09月25日 12:22
筏流しの技術はもう残ってないんでしょうかね。
Posted by モリガメ at 2012年09月26日 00:55
長野集落に一人いる。筏のことを詳細に聞いておくのは今のうちた゜と思うが。道具とか部材はまだ、残っていると思います。
Posted by ギンナン爺 at 2012年09月26日 07:55
地蔵様は八十里街道の道路脇にありお参りをする旅人で賑わったと想像する。戊辰戦争では後ろの山に長岡藩の砲台があり、西軍と長岡藩の戦いを見て何を思ったか。
Posted by ロレックススーパーコピー at 2013年07月26日 11:59
布時計をまねます:細い長軸の種類の加工の労働者の歩の中で、太くて、精密な車が常にあって労働者の歩の高さを合併して腕時計をまねます。調整の時、まず太いターニングの刀
Posted by jpsogreat at 2013年09月06日 18:03
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