2012年02月11日

日本一の中砥と名声を博した笠堀砥

 笠堀砥について簡単にまとめて見た。 笠堀砥は五十嵐砥とよばれ 日本一の中砥として名声を博したた。江戸時代「越後産物くらべ」という番付にも名を連ねていた。写真下
日本一の中砥と名声を博した笠堀砥




 カモシカと秋の紅葉で知られている 旧下田村笠堀とよばれる集落に 砥沢川(地元ではトゾゥとよんでいる)という 福島県境から 笠堀ダムへと流れこむ渓谷美ゆたかな川がある。その上流 集落からトゾゥ道(現光明山登山道)を辿ること5~6時間の所に 大鼻坑道はある。大鼻坑道での笠堀砥採掘は大正13年~昭和30年前半まで続いた。地下坑道による産出前は露天掘りであった。
 
写真下 大鼻坑道発掘紀念大正13年8月25日朝6時ごろ撮影とあった。
日本一の中砥と名声を博した笠堀砥




 笠堀砥沿革史には 我ガ笠堀砥石ノ発見ハ其記録ナクシテ明カナラザレ共往古ヨリ砥石ヲ採掘シタル旧坑道其他伝説に依レバ200有余年前ナルベク天保時代ノ記録ハアレ共其以前ノ記録ハ遺憾ナガラ見出スヲ得ズ 伝説二依レバ四朗・五郎・三太・松兵衛ト云フ者ガ発見セシリトアリ其時代不明ナリ以上ノ数名ノ者ガ現砥山付近ニテ塩木ト云フ薪材ヲ伐採二入山セシ杣ガ発見セシモノト思料セラル其時代不明ナリ。

 我が笠堀は 往古より耕地少なく(中略)砥石を唯一産物として生計をたてたとあり 一時期全戸といっていいほど砥石採掘に従事した。
 砥石は共同で採掘しあら割にて分配 各自現場で加工し背負って中だし小屋まで運びそこから集落へと運んだ。多い人は男で33貫あまり女で17貫あまり背負ったと聞いた。ですから 荷が重いため浮き石にのる(踏む)とバランスをくずし谷底へ転落するので 箒で道をきれいにしながら歩いたという。

日本一の中砥と名声を博した笠堀砥


写真上 砥山で宿泊した建物「もろぎ小屋」 そこを食砥(しょくど)と呼んだ。

 収入も多かったのか 一時期ほぼ全戸が採掘に従事し 又 大正年間かなりの撮影料で有ったと思われるが 泊りで長岡の写真館に写真撮影を依頼しておる。
 笠堀集落には 砥山はまさに宝の山だったと思われる。


参考資料
笠堀砥沿革史(坂井重太郎氏蔵) 笠堀郷土誌(坂井裕氏蔵)
写真提供 熊倉岩男様他

 ギンナン 爺

 


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Posted by しただ郷 at 17:11│Comments(2);歴史
この記事へのコメント
素晴らしい記録ですね。
Posted by モリガメ at 2012年02月12日 12:17
ありがとうさん 毎日片腕で雪と格闘しています。サケの寒中ほし 昨年の暖かい天気で失敗でた。
Posted by ギンナン 爺 at 2012年02月13日 08:48
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